中学・高校の課題「ヴィヴァルディ」基礎と生涯 調べ学習

・学習
スポンサーリンク

中学の音楽の教科書に必ずといっていい程登場する

作曲家「ヴィヴァルディ」について。

中学生の娘と調べていると、へえええ~と思うこともたくさん、でてくるものですね。

定番の基礎知識から、エピソードまで、課題の参考になれば♪と思います。

中1 次女画( *´艸`)

 

「ヴィヴァルディ」基礎知識

 

作曲家名 アントニオ・ヴィヴァルディ

アルファベット表記 Antonio Vivaldi

誕生日 1678年3月4日

没年齢 63歳

出身国 イタリア ヴェネツィア共和国(カステッロ区)

時代 バロック(1600年~1750年ごろ)

有名な作品 「四季」「春・夏・秋・冬」「グローリア」「調和の霊感」

作品は、広範にわたり時に協奏曲において、合奏協奏曲、リトルネッロ形式をもつ独奏協奏曲の発展に寄与し、シンフォニア風の急緩急の3楽章形式を確立した

バッハは、もとより、古典派協奏曲の先駆者的役割を果たす。

 

1725年(47歳)の時、「春」を含む「和声と創意の試み」が出版され、名声の絶頂をむかえる。

未完や紛失、その他の人との共作を含めると総作品数は、800以上!

 

☆同じバロック時代をいきた作曲家は、他にも、バッハやヘンデルがいましたが、

他の作曲家たちに比べて世俗的な生き方をした人物です。

スポンサーリンク

アントニオ・ヴィヴァルディの生涯

・1678年 理容師でヴァイオリニストでもある父親と、仕立て屋の娘だった母との間に長男として誕生しました。

アントニオの他に亡くなってしまった子も含めて男の子4人、女の子5人の兄弟がいましたが、彼らの中から音楽家は誕生しなかった!

・10歳でサン・ジェミニアーノ教会付属学校へ入学。

・21歳で下級叙階を得る。

・22歳で助祭となり、

・25歳で司祭に叙階される。(赤毛の司祭といわれる)

ピエタ院で働き始める

<音楽教師をしながら、作曲家としてのヴィヴァルディの名がヨーロッパじゅうに

広がっていく。>

ピエタ音楽院で音楽を教えた生徒たちによる演奏会は、ヨーロッパ中から旅行客が訪れるほど

人気があり、その演奏会のために膨大な数の協奏曲を作曲することになったのです!

 

・1711年 オランダで出版された「12曲の協奏曲<調和の霊感>」は、彼の名声を決定的にする。

・1713年 オペラの作曲を始める。

 

この年にサンタンジェロ劇場の興行師になり、劇場の雑用を沢山こなす。のちに聖職者てありながら、世俗の商売に手をだした。ということで、物議を醸すことになる。

でも、そうしながら、ピエタ音楽院の教会音楽や協奏曲の作曲も続けているし、教育活動もおろそかにしていない。

 

 

・1718年からヘッセン・ダルムシュタット辺境伯の宮廷楽長になり、若いソプラノ歌手や付き添いの人たちと演奏旅行をするようになり、司祭でありながらミサをしない。と、評判はあまりよくない。

 

人気が安定して頃はすでに40代半ば。演奏旅行をしている期間がすごく長い人でした。

 

 

・1722年末ごろからローマでオペラを彼の指揮で初演を行い成功をおさめる。

また、教皇謁見の際にヴァイオリン演奏を所望されたり、

1725年 「四季」を含む「12の協奏曲集<和声法と創意の試み>Op.8」が出版されたりと、

とても音楽家としても幸せな充実した時期を過ごす。ヨーロッパ各国を巡りながらオペラ公演も続ける。

・1735年からピエタ音楽院での仕事に復帰し、アムステルダムの王位劇場百年祭で大規模な催しの音楽を担当。これは、ヨーロッパでもヴィヴァルディが音楽家としてとても名高いことを証明した。

 

 

しかし、このあたりから、人気に陰りが出てきます。

聖職者でありながら、オペラ公演などで収入を得たり、若いソプラノ歌手や仲間を連れて

演奏旅行にでかけてしまう生活をよく思っていない住人から町に入ることを拒否されてしまいます。

この時期から、思うように生活ができなくなっていきます。

 

・1740年 生まれ育ったヴェネツィアから旅立ち、ウィーンでオペラ公演をするために自身の楽曲を安く売り、旅行費用を集めます。

ウィーンについたヴィヴァルディに悲劇が襲います。

・彼を支援してくれていたカール6世と神聖ローマ帝国のローマ皇帝が亡くなってしまいます。皇帝が亡くなったことで、オーストリアは1年間すべての興業を禁止としたため、計画していたオペラ公演が出来なくなりました。

・さらに国民の音楽離れがすすみ、ヴィヴァルディを支援してくれる人がいなくなります。

 

・それらの不運も重なり、身体的にも精神的にも負担が大きく、ウィーンの劇場にあった作曲家用の宿舎で突然亡くなってしまいます。

 

・当時63歳というかなりの高齢だったため、さほど調査もされないまま単なる一旅行者として、ウィーンの共同墓地に葬られてしまいます!

、新興国国家プロセインとの戦争が始まっていたため、国自体が作曲家に構っていられる状態ではなかったことも大きく影響しています。

 

しかも!70年後に墓地は取り壊され、そこにウィーン工科大学が建てられてしまっているとは、驚きです。。。

 

さいごに

 

ヴィヴァルディの生涯。

たどっていくと、激動の人生を歩み、生まれた瞬間から音楽の世界にいた人だったことがわかります。

華やかな時代から、亡くなってしまう最後。あまりにもイメージしていた世界的有名な音楽家の終わり方だとは思えない。作曲家の歩んだ歴史を勉強したのちに、あらためてヴィヴァルディ作曲の作品をきいてみると、また、違う気持ちで鑑賞できるのではないでしょうか?

 

 

 

 

 

ヴァイオリニスト

 

・学習音楽
スポンサーリンク
わんこをフォローする
スポンサーリンク
しばわんこの朝

コメント

タイトルとURLをコピーしました